2015年2月9日月曜日

想い出のベンチ

人を待つ公園のベンチ


レナータ



誰も座っていないベンチを見ると...


「次に座ってくれるのは誰?」
「誰か、座らない?」


という声が聞こえる。


座った人たちのお喋りを聴いて楽しむのが大好きだから

ベンチは、いつも誰かが座るのを、待っている。

*     *      *      *      *      *


気持よく晴れた初夏、ホランドパークをお散歩中のダイルクロコダイル氏は、
木陰のベンチを見つけたので、少し座って本を読むことにしました。

暫くすると、顔見知りのお婆さんレナータがきて、隣に座りました。

そして、彼女は誰に向かうでもなく、語り始めるのでした。


それは、レナータの美しくも波瀾万丈な人生の物語です。

楽しかった幼年期、学校の想い出話、ドイツとイギリスとフランスの生活、両親と兄弟のはなし、飼っていた犬や猫の事、音楽のこと、11歳からの寄宿舎生活について、初恋の話、音楽家として仕事を始めた頃のこと、新婚時代、戦争のこと、悲しい別離とそれを乗越えた幸福な日々の話、子育てに追われて朝から晩まで忙しく過ごしていた時代、音楽家として再び世に出て味わった充実の日々、演奏旅行、そして離婚と再婚、子供の結婚と孫の誕生、忙しい都会から離れて憧れの静かな田舎暮らしをしたけれど、数年で想い出の多い長年暮らしたロンドンに再び戻ってきたこと、そして貴方にもまた会えるようになってとても嬉しく思っている...

話の途中から、ダイルクロコダイル氏は、読んでいた本を閉じて、レナータの話に
じっと耳を傾けました。

長い話が終わると、レナータはバッグの中から
サンドイッチとお茶を出してベンチに広げ
ダイルクロコダイル氏にもすすめてくれました。

そして、このベンチは彼女の夫が亡くなった時に
その想い出として寄付したもので
毎日こうしてベンチに座って昔の想い出話を彼と一緒に楽しんでいること
そしていつか彼女が死んだ時には、もう一台のベンチを寄付するつもりなので
隣に並べて欲しいと思っていること

などを微笑みながら話してくれました。



晴れていた空が急に暗くなり、
ぽつぽつと雨が降り出してきたので

2人は立ち上がり、公園の出口に向かいました。

公園を出た所でダイルクロコダイル氏は、コーヒー豆を買いに左へ
そしてレナータは自宅に戻るから、と右に別れて歩き出しました。




コーヒー豆をホールフードで買って、店を出ると
暗い雲は去り,明るい夏の日差しがまた
戻って来ていました。

ダイルクロコダイル氏は、この次ぎにレナータと会ったら
夕食にでも招待して、彼女が生まれ育ったドイツの話や
戦争時代のパリの話、そして平和になって移り住んだ
1950年代のロンドンのことなどを
じっくりと聴いてみたい、と思いました。


その夜いつもの様に
本を持ってベッドに入ったダイルクロコダイル氏ですが
最後に右と左に別れた時のレナータの雨に濡れた少し淋しそうな笑顔が
頭から離れず、本のページはなかなか進みませんでした。




それから、数週間経った天気の良い午後、
公園の木陰にある例のベンチに座って
ダイルクロコダイル氏は、本を読んでいます。
レナータを夕食に招待しようと思い
彼女が来るのを、待っているのです。

気配を感じて目を上げると、そこにいたのはレナータではなくて
お喋りなクジャク夫人です。

彼女にレナータを待っていることを話すと

「あら,ダイルさんご存じなかったの?
彼女10日前に、急に肺炎で亡くなったのよ。
雨に濡れて風邪を引いてしまってね、それをこじらせて...、
お気の毒にね。毎日来ていたレナータが、
このベンチでもうお喋りをすることはないのだと思うと
本当に淋しくなりますわ、わたくしとても悲しいわ... 
ねえダイルさん、そういえば先日池にはまってしまったお嬢ちゃんのこと
お聞きになりましたかしら、あの子ったらね、ちょっと聞いて下さいます?
ぺらぺらぺらぺら....』



その後のクジャク夫人の果てしなく続くお喋りはもう
ダイルクロコダイル氏の耳にはいりませんでした。

「では、失礼」と、クジャク夫人に言うと立ち上がり
公園の出口に向かって歩き出しました。


角を曲がる時に後ろを振り返ると、誰も座っていないベンチが見えました。
レナータが楽しいお喋りをしにくることをじっと待つ、

一つの淋しそうなベンチが
見えました。